素戔鳴尊は、皆様よくご存知の通り、伊勢神宮にお鎭ります天照大神の弟御に当たられます。素戔鳴尊はその激しい勁い御性質の為に、粗暴な行いをする神様として多くの話が伝えられています。
大神様は時には純粋な正義感から、時には強い本当の感情から、或いは余りにも人間的な単純な御不満からなされた行為に対して、その御心が周囲から好意を以て理解されない為に、並々ならぬ御苦労をなされるでのあります。大神様の一挙手一投足が台風の目の様に、神々の間に激しい混乱の渦をまき起されるのであります。そのよしあしは別としまして、今の世の中でも、とかく強い性格のものは周囲と調和せず争のもとになり易いのであります。大神様の場合はたくましい御気性の赴くままに純粋なお気持でなされた事が周囲の誤解を生み、粗暴な神様として孤独な受難の道を歩まれたのであります。大神様は御自身のなさった事柄に対し、手足の爪を剪り贖いをされ、蓑を着て追放の辛さに堪えながら、怨むことなく、只黙々としてつつましく自らを清めつつ、長い年月の果てに「吾心清々之」と仰せられ、睛々とした澄み切った御心になられるのであります。この大神様を仰ぐ度毎に勿体なくおもわれますのはお祓のこころであります。大神様は御自分のなさった行いを悪い事と御自覚になり、身を以て御実践される事により御身を祓い清め、遂に淨きあかき、正しく直き大御心に立ち帰られた尊い御教えであります。
世の中に善と云い、悪と申しましても相対的であって絶対的なものではないのであります。悪があるからこそ善があるので、悪を意識するところから善への第一歩が始まります。
祓と云い、禊と云うものは、素直な心になって反省に反省を重ね、初めて悪とされている罪や穢を自覚するところから始まります。その罪穢の心から淨明の心への転換が祓であり禊であります。いきいきした明るい生活即ち神様と共に歩む生活への門は祓禊であって、その後に来るものは辛い精進生活であります。
きびしい主義思想の対立する国際情勢のさ中に、そして又激しい経済の動きと複雑な人間関係の中にあって、み国の栄えと社会の平和を願い、浄く明るくそして正しく生きる事のむづかしさを痛感する私達は、この様な大神様を氏神として仰ぐ事の出来るのはまことに幸せだと思います。余りにも人間的な大神様の一世は私たちにとり大きな感動であります。と共に私達の往く道を照らす一大光明であり救いであります。辛い時苦しい時こそ大神様の御教へのまに奮起し、自らを鍛え清めたいと存じます。 |